映画「FAKE」をみていくつかのこと

fake

「FAKE」は偽物という意味ではなく「嘘」ということ、一人の作曲家の嘘が問題になってその問題が沈静化した。そんな時、映画監督が作曲家の元を訪れる。

本編で作曲家自身が言っていた

騙された人がそれに気付いて復讐している

と、その時にこう言ってもよかったのでは「私が嘘をついていたのは間違いないのですが、それは演出でもあったのです」冷静になって考えてそう言うこともできただろう、でもそれは言えない、言ってしまえばゴーストライターと同じになってしまう。

ゴーストライターは過剰に演出に乗る自分を演じているように見える、それはあまりに作曲家とは対照的だ、ゴーストライターは「そう、それは演出でもあったのです」を体現しているように見える。

作曲家は面白い人でもあった。監督は出会ったときに絵になると感じたから映画にできると思ったと言っていたが、そういう面白さ、それは「素直さ」と関係がある、作曲家はけっこうカッコイイ感じなのだが同時に素直な人でもある、豆乳が好きで、ケーキも好き、猫も好きだし、TVも好きなのだ。素直さは謎であり面白くそしてセクシーである。

かってこんな映画を見たことがあったと考えると、それは「ゆきゆきて、神軍」ではなく「大日本人」であった。「大日本人」はドキュメンタリー風だけどもピュアなおじさんが生活している臨場感がでていた、おじさんの寂しさ、昔はすごかった、今は苦労している、そんな話をただ聞いているのがそこが面白かったのに娯楽にしたいのか派手なシーンがあったけど、そんなのはいらなかった。作曲家も「すごかった」をみせようとする(最後の12分で)その流れも「大日本人」であった。結局、監督はなにを見せたかったのか「すごかった」なんか見せたくないはずだ、やっぱりおじさんであることは間違いないのだが、それではまとまらない、愛も音楽もメディアも入れてみたけど、おじさんのことはあんまりよく分からない、妻にもよくわからない、メディアにももちろん分からない、監督、あなたなら分かるのではないのか、と思わせるところがある、そのやりとりは面白い。それを見るのがこの映画なのでしょうか、違いますか。

監督はある普遍性がということを言っていた「信じる」という言葉が出てきた、信じる、なにを、あなたを、信じたいのは嘘についてではなくこの関係性について、友情についてあなたを信じたいと、それはあったと思う、友情のような関係はあった、最初は打算があったのかもしれないけれど、もうそれはなくなった、そういうことが普遍性と関係があるのかもしれない。ドキュメンタリー的なこと、なにかの問題をクローズアップとかはない、一人のおじさんの話にしか見えないから、でも男達の友情のドキュメンタリーとその別れがあった。それはあった。

FAKE|監督:森達也/出演:佐村河内守